この存在の全てを肯定する幸せ。

その幸せを分かち合う喜び。

人として生を受けた意味に想いを馳せる。

・・・

201858日(火)、岡部明美さん(あけみちゃん)の心理セラピーのセッションを受けた。

あけみちゃんとの出会いは昨年6月、湘南で行われたワークショップだった。

それ以来、様々な機会で顔を合わせては、温かい励ましをいただいていた。

セッションを受けようと決めたのは、あけみちゃんの著書『私に帰る旅』を読んでから。

元々は次回開催されるであろう7ケ月間のLPL養成講座を受講しようかと検討していたけれど、本を読み終えて「セッションを受けたい!」と、スイッチが入ってしまった。

・・・

” 私の中には『出家とその弟子』や『歎異抄(たんにしょう)』を読んで深く親鸞に惹かれていくような自分がいる。老師も凄く好きでタオイズムにはなぜかとても心惹かれる。手塚治虫の「火の鳥』や『ブッダ』、三浦愛子の『氷点』、遠藤周作の『沈黙』にものすごい衝撃を受けた自分。これらの本は全部私の心の同じ琴線に触れたのだと思う。しかし親鸞に惹かれても浄土真宗には全く興味が向かない。ブッダやキリストに惹かれてもキリスト教徒や仏教徒になろうとは思わない。ー『私に帰る旅』P112より”

実は、遠藤周作の『沈黙』は大学時代に最も衝撃を受けた一冊だった。

友人にすすめられ、大学の図書館で借りて授業もそっちのけで夢中になって読んだ。

読んで1週間くらい、何も手につかなかったくらいに心を揺さぶられた本。

そんなわたしはあけみちゃんにとても親近感を覚えた。

これからある宗教団体と自分の関わりについてセッションが進んだことを書いていくのだけれど。

今思えばそれは必然だったのかもしれない。

・・・

セッションについて触れよう。

今回のセッションで相談してクリアーにしたかったのは、今後の方向性だった。

ビジネスパーソンよろしく(?)、セッションの結論から書いてみようか。

「本来の自分の生を肯定し、生きることが課題。」

「自分の存在の全てを肯定して生きる。」

「幸せを先延ばしにしない。今、この時に生きる。」

「べき・ねばを全部捨てる。」

「人生の贈り物に感性を研ぎ澄まし、受け取る。」

なかなか好転しないパートナーシップ(パートナーがいない、おつきあいしても続かない)のこともお話ししたけれど。

わたしが本来の自分を生きることが先。

そうだね。

振り返れば、多分今までずっと一人でいる方がこれまでのわたしは幸せだったんだろうね。

孤独と自由は紙一重。

ひとりというのは、思う存分にやりたいことができるということでもあって。

責任と代償を引き受ける代わりに、何でも自由に、やりたいことを全うしてきた。

それだけの時間もエネルギーもあった。

そのことが自分にもたらしてきた恩恵を思えば、自分の選択はこれでよかったとも思えるんだ。

人生の前半戦に比べたら、後半戦はずいぶん楽ができそうな気がしているよ。

わたしの場合、前半は自分のため、後半は世のため人のために使う人生の時間配分になるのかも、なんておこがましくも思ったりして。

・・・

こんなセッションの一場面があった;

わたしは生まれてくるのが嫌だった。

こんな世界、生まれて来たくないって思って生まれてきた。

生を受ける前、魂が元いた場所の方がよっぽど幸せで。

その場所が本当の故郷なのに。

ずっとそこにいたかったのに。

この現実世界の方がまるで夢であるかのような、ひとときの幻のような気がしたまま。

ずっと感じていたことだったんだけど、言葉にして誰かに伝えたのは初めてだった。

それを受け止めてもらえて安心した。

あけみちゃんに指摘されたのは、それでも生まれ出ることを選んだこと。

わたしの魂は生まれることを望んでいたことだった。

生まれたら、周囲に合わせて自分を殺さなければならなくなるとをわかっていたけれど。

それでも果たしたい何かがあって生まれてきたのだと。

「女の子でよかった!」

「生まれてきてくれてよかった!」

あけみちゃんの言葉には、全然反応しないわたし。

「それ誰にとってよかったの?」

「誰の都合でよかったって言ってるの?」

ってさめざめと、淡々としている。

ホントのこというと、まるでやっつけ仕事でもしにこの世界に来たみたいな感じがするんだよね。

あーあ、早く終わらせて帰りたいな、って。

ある意味幸せだよね。

終わりは必ず全員にやってくるというのに、死にたくないこの世にいたいって悩んだり苦しんだりする人もたくさんいるんだものね。

わたしにはむしろその感覚が全然わからないけれど。

・・・

さて、わたしはある宗教団体の強信者の家に生まれた。

生まれた時から徹底的に躾を受けた。

NOを一つも言えず、言えば父親に怒鳴られ、ひどい時はぶたれる。

その宗教の教義通りにすれば幸せになれると信じている家だった。

宗教宗派は違うけれど、どこもよく似たことをするんだな、ってとても共感できる漫画を見つけたのでリンクしておくね。

 試し読みがあるので、よろしければ。

宗教に傾倒している家がどんな風なのか、よく伝わってくるよ。

よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話 (ヤングマガジンコミックス)

父は今でも強信者だし、亡くなった母もそうだった。

かつてのわたしはその宗教団体の熱心な活動家だった。

しかし、やってもやっても、頑張ってもがんばっても、自分がこれで幸せになっているとは感じられなかった。

そう、全然幸せじゃなかった。

しかしそれは業が深いとか、まだ祈りが足りないとか、(すでに限界だというのに)もっと活動をするのだとか、より教義を学ぶとか、そのようにして解決をしなければならないことらしかった。

毎日死ぬことばかり考えていた。

それがなぜなのか、当時はわからなかった。

今はよくわかるけれど。

この、やってもやっても、頑張ってもがんばっても、幸せにはならないという感覚。

以前に、何をどうやっても自分の人生が変わったとの実感がわかないという感覚について書いたことがある。

その大元のルーツがここにあったのだと、今回のセッションでよく理解できた。

・・・

「この宗教団体を離れたら地獄に落ちる」と叩き込まれていたけれど。

幸せに暮らしている人なんて宗教に関係なくいくらでもいた。

不幸せを訴える人も、宗教にかかわらずどこにでもいた。

まして人の幸不幸に、宗教団体は何一つ関係なかった。

その確信をもとに、わたしがその宗教団体から離れたのは、シンガポールに滞在している時だった。

シンガポールにも団体の支部があって、よく活動をしていたけれど。

わたしは耐えられなくなった。

何もかも。

そして自分が置かれている現実そのもののほうが、よっぽど本物の地獄のように感じられた。

「地獄に落ちるって?もうこれ以上の地獄が一体どこにあるんだろう?」って。

そしてある時「わたしはもう活動には参加しません。」と当時の責任者の方に伝えた。

持っていた書物、関連のものを全部捨てた。

お祈りも一切やめた。

ものすごく怖かったけれど。

やってみると、大きな重荷を降ろしたような清々しい気持ちだった。

確か10年くらい前だったと思う。

そして2018年5月現在、わたしは自分が地獄に落ちているという実感はない。

父親の顔色を伺い、宗教団体にしがみついていた頃よりは、はるかに心身ともに健康で幸せに暮らしていると断言できる。

何も宗教団体そのものや、そこで出会った人々を否定したいのではない。

お世話になった人たちもたくさんいる。

友人にも恵まれた。

みな、優しく温かい心の持ち主ばかりだった。

得難い経験もさせてもらえた。

ただ、わたしの幸せにあの宗教団体は必要ない、ということに気がついただけ。

・・・

宗教団体のことをここまで書く予定ではなかったけれど。

自分の存在を肯定して、本来の意味で自立を果たして自分の人生を生きていくということを鑑みた時に、このことは避けて通れなかった。

この宗教団体にまつわる経験が、まるでへその緒のように父とわたしをつなげているようだと、あけみちゃんに指摘された。

そう、これは精神的な癒着。

父、宗教団体、そしてわたし自身の境界が曖昧で、わたしには精神的な依存がある。

へその緒は、本来生まれた時点で切るものだよね?

父は父、わたしはわたし。

宗教の有る無しに関わらず、父は父で、わたしはわたしで大丈夫。

あけみちゃんには、そのような観点でセッションをしていただいた。

精神的な自立を果たすのだと。

・・・

両親にとって、かの宗教は善なる、輝かしい存在。

だから子供にこそ、幸せになれるようにと必死に躾をしたのだ。

それが長きにわたって子供を苦しめる結果になるなんて、夢にも思わなかったのだろう。

一体誰を責められる?

どこかやりきれない思いが拭えずにいる、今でも。

・・・

さて、宗教云々を取り払って、ただ父親のことを感じるというセッションの流れになった。

そうすると、大きく、温かく、荘厳なエネルギーを感じられる。

わたしは父が大好きで、とても尊敬している。

たくさん愛情を注がれたことも知っている。

…そんなことを感じた。

あけみちゃんには、この大きく温かく荘厳なエネルギー、姿形に関係なく、それを感じられる人こそが自分が求めるパートナーだということも指摘された。

本当にそうだと思ったよ。

そういえば、前回受けた白鳥大介さんのセラピーセッションでも、父親から精神的な自立を果たすことが最後に出てきたんだよね。

父は父、わたしはわたし。

過去を手放して、全て自分の責任のもと、自分の人生を生きる。

もう誰の、何のせいでもない。

”自分の中の「好き、楽、心地いい、ワクワクする、私がそうしたい」という感覚で人生を選んでいったら、苦しいことや問題が起きてきたときに人のせいすることはなくなると思った。いや、人のせいになんかできないのだ、自分が選んでいるのだから。責任転嫁は、その時には一瞬自分は楽だけれど、決して本当に自分の人生の主人公にはなれないし、自分を幸せにしないのだ。ー『私に帰る旅』P221より”

わたしはただ自分を生き、全うしようと思う。

・・・

「本来の自分の生を肯定し、生きることが課題。」

「自分の存在の全てを肯定して生きる。」

「幸せを先延ばしにしない。」

「べき・ねばを全部捨てる。」

「人生の贈り物に感性を研ぎ澄まし、受け取る。」

これからの方向性にあたり、セッションで見えてきた課題。

最後に「人生の贈り物に感性を研ぎ澄まし、受け取る。」というところをみなさんにシェアさせていただこうかと。

あけみちゃんには、自分がいかに宇宙に愛されているのかと証拠探しをして、毎日、習慣としてブログなどに書くことを勧められた。

それを続けていくと、どんどんその証拠を見つけられるようになるから。

やってみようと思う。

よろしければあなたもご一緒に。

・・・

”いまだ、私は旅の途上にある。しかし、もう、気づいている。人生は生きるに値するものであり、世界は美しく、優しく、楽しく、輝きに満ちたものであることを。そして闇は光の入り口であることをー。ー『私に帰る旅』P274より”

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

自身の「私に帰る旅」はこれからもまだまだ続いていきそうです。

全ての出会いに感謝を捧げます。

また、お会いしましょう。

 

私に帰る旅 (みらいへの教育)